世界には私たちとそれ以外という垣根があって、私は、その内側に居れさえすれば満足だった。


 真境名夕姫の境界

 胸を締め付けられるような郷愁が、不意に私を包んだ。
 ただのデジャヴだろうと理解しているのだけど、なぜかそれを振り払う気になれなくて、むしろ、ずっとその気持ちに心をゆだねていたくて、私はその郷愁にそっと身を横たえた。
 いつの間にか鼻孔をくすぐっているコーヒーの彩り豊かな香りに、ふと現実に引き戻される。お気に入りの窓際の席に座って、ガラスの外側を見ていた。道を歩く人と目があった気がして、不自然にならないようにそっと目を伏せる。ついでに、コーヒーを一口。幾分かぬるくなってしまっていて、随分と長い時間、物思いに耽っていたのだなと苦笑が漏れた。
 なんだったのだろう? 今のは。
 カフェインが入って少しずつしっかりとしてくる意識を自覚しながら、いまの、何ともいえない懐かしさを振り返ってみる。ずっと昔、とても懐かしい記憶。手を伸ばせば届きそうなのに、考えれば考えるほどその形はぼやけてしまって、霧散してしまう。
 マスターが心配そうにこちらを見ていた。私、今どんな表情をしているのだろう? どこか自分が曖昧になってしまった気がして、自己をまるで制御できていないような気がして……、お愛想程度に笑みを浮かべる。出来ることなら、ちゃんと微笑みになってればいい。
 マスターは満足したのか、それとも自分の態度を不躾だと感じたのか、会釈をして自分の仕事に戻る。このカフェは、このマスターの距離間がとても好ましい。
 それから、再びガラス越しに外をうかがった。それが私の小さな楽しみだった。何故? とか、どこが? とか聞かれても困る。ただ、自分はこのガラスの内側にいるのだなと思うと、ひどく安心した。
 私はよくこうして一日中、カフェに居座っている。マスターは、そんな私に声をかけてくる出もなく、ほかのお客さんに笑顔を振りまいている。ここにも目に見えないガラスがある。……私は、それにもどこか、安堵する。
 不意に、この静かな空間に似つかわしくない無愛想な着信音が空気を揺らした。
 テーブルの上に置きっぱなしだった携帯が、自己主張するようにテーブルをたたいた。ふるえながら、何度も、何度も。
 任務かな。
 溜息をついてポケットから小銭を探す。
「お会計、お願いします」
 そんなはずはないのに、声を出して初めて、自分の形がはっきりと世界に現れたような気がした。


 その日の任務も、いつもと特段変わったことはなかった。
 一般人に危害を及ぼすジャームを、ジークリートと協力して排除する。チルドレンの教官としての仕事をのぞけば、毎日のように行っている、当たり前の業務だ。もっとも、私が出来ることなんてほとんどない。ジャームの排除は、ジークリートが一人で行う。私はただ、それを漫然と眺めているだけだ。教官としての地位を与えられてるのも、ひとえに私が実践向きの能力を持っていないからにすぎない。人類を越えた人類、オーヴァードであるにも関わらず、私はその超常の力を活かせずにいた。
 出来損ないだ。
 しかし、その出来損ないだからこそ、私はUGNに必要とされてもいた。UGNが掲げる理想が一般人とオーヴァードの共存だからだ。それはそうだ。世の中のオーヴァードがすべて、私のような弱い力しか持っていなかったら、その理想は今UGNが考えているよりもずっと、現実に近づいているだろうから。
 ジークリートと一緒に現地に到着。UGNの情報はいつも通り正確だった。ジャームの気配がする。それに、微弱ながらワーディングの痕跡も。ここにターゲットがいると思って間違いないだろう。繁華街の片隅。人通りが多いわけではないが、決して無人にはならない、そんな場所に、ターゲットは潜んでいた。厄介ね、とは思うけど、そもそもジャームがこちらの都合までおもんばかってくれるわけがない。まだ繁華街の中心じゃなかっただけ、運が良かったほうだ。
 ジークリートの指示を待たずに、領域を広げる。
 それでジークリートが私に文句を言ったりはしない。お互いのやるべき事をしっかりと理解しているからだ、と私は解釈している。
 力を使うときは、私と私以外を隔てる壁を壊すイメージ、霧に溶けて、私自身が世界に広がっていくことを意識する。オルクスと呼ばれる能力だという、私自身を世界に広げる能力。出来るだけ広範囲に、私自身、つまり『領域』を広げていく。広げきってしまえば、もうそれで私の出番はおしまいだ。
「……居た。私の腕に抱きました。後はお願いします」
 ジークリートがうなずいた。
 いつも通りの、澄んだ、水面を思い起こさせる表情。
 戦いの前、ジークリートはいつもそういう顔をする。
 見ていられなくて、私は目をそらした。
 それだけじゃない、戦っているところ見るのも、役立たずな自分を突きつけられるのもイヤで。
 いつもと同じように、彼が何かを口にする前に、私は言っていた。
「一般人が巻き込まれないよう、領域を見回ってきます。それでは」
 ジークリートに限って万が一があるわけがない。それに、領域内で起きていることなら私にはわかる。言い訳だとはわかっているけれど、私は一度も、彼と戦場をともにしたことはなかった。

 領域のなか、私自身の中とも言えるそこを、ふわふわと漂うように歩く。彼とターゲットが接触したのを感覚の片隅で確認しながら、私は領域の内と外との隔たりを強固にしていく。中にいるものは自然と外にでたくなるように、外にいるものは、足を踏み入れる気が起きないように、領域を隔離していく。
 服を着て、靴を履いて、外を歩いていてもおかしくないくらいに偽装した私の殻が、領域を展開している束の間だけは稀薄になる。靴底の感触と、コンクリートの肌を突き刺す痛みを同時に知覚する。肌の上に載せられた衣類と、ジャームの発する寒気を、同時に触感する。そうして、領域の外に意識を向けると、まるで大量の海水に押し込められでもしたかのように、外が私を押し返している気がしてくる。
 ……あそこをどうやって泳いでいたのか、わからなくなりそう。
 領域の外に目を向けて、思わずほほえんだ。
 それならそれで、別にかまわないと、……喫茶店で感じたささやかな郷愁を思い出しながら、そう思った。
 気がついたのは偶然だった。のに、後で考えてみたら、どうして気がつかなかったのかと、そのことに驚きさえした。
 領域の外から、こちらを見つめている男が居る。路地裏、生ゴミの入ったゴミ箱と生活の裏側に必ず存在する腐臭の中にいて、そいつはいっこだにせずこちらを見つめていた。
 年の頃は15歳程度だろうか? 幼さの残る顔に、見たことのない物騒な笑顔とゆるぎない自信が浮かぶ。
 一般人のそいつに、こちらが伺えるはずがない。気づくはずがない。そうは思っていたのに、私は意識を離すことが出来ずにいた。
 領域という薄壁を隔てて、そいつと向き合った。
 うぶ毛が逆立つような鳥肌が前進を走った。
 たゆたう外の空気と私の境に意識をのばす。すると、そいつはちょうどそこに手を伸ばした。
「……ち、つまんねえ。ほとんど終わってるじゃんか。ぜんぜん喰い足りねえよ」
 言い捨てると、そいつはやおら振り返って、繁華街の人混みにその姿を消した。
 それからはいつも通り。
 誰もこちらを意識したりしない、誰も私の中には入ってこない。
 どうしてか私は、それを物足りなく感じていた。

 ジャームはジークリートが問題なく処理をした。


 私は、またいつものように喫茶店の窓際に座って、道行く人を眺めている。ガラス越しに手を当ててみると、こちらとあちらを隔てる堅く冷たい壁が、私の手を押し返した。
 ……そういえば、外から声をかけられたのは初めてだった。
 なぜか、強くそれを意識した。

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